
コラム
| 善と悪−あるものにとっての善はあるものにとっての悪、あるものにとっての悪はあるものにとっての善 ワンネスとは何一つ同じものは存在しないということ。 人々の魂は虫や鳥、魚、動物、植物にも転生するのだろうか。 |
| 善と悪−あるものにとっての善はあるものにとっての悪、あるものにとっての悪はあるものにとっての善 |
ニューエージ、オールドエージが悪は存在しない、否定的なことはやってはいけない等の人々の心を迷わせる理論を流行らせた。 ほとんどの善、そしてすべての悪はある者(物)にとっての善は、同時に他の者(物)にとっての悪であり、ある者(物)の悪はまたある者(物)の善であるように私には感じられる。誰かの天使は誰かの悪魔、誰かの悪魔は誰かの天使。 たとえば、ある人が環境問題についての講演会の為に飛行機に乗って出かけたとする。講演会にきてありがたい話を聞いた人々にとってはこの人の行動は善だけれども、多大な石油で汚れた自然にとっては悪だろう。 また人々が洗濯機で掃除すれば手は荒れないし、腰も痛くならない、時間も節約できる−善、反面地球は確実に毎日汚れていっている−悪である。車や冷蔵庫、コンピューター、テレビ、カメラ等の電気製品、プラスティック製品、温室栽培、家畜産業等は皆、善と悪両方を生み出している。 人が動物を殺す場合、または人が人を殺す場合も、殺したいという欲求が満たされたという善、そして殺された人にとっては悪の二つの立場が存在する。人殺しと洗濯機を使うことと同じにするな、という非難の声が聞こえてきそうだけれども、二つの状況は全体との調和の反するという点において、同じエネルギー方向を持っている。洗濯機を使う人はそのことによって悪が作られるということには気づいていないだろうし、人を殺す人は、精神的な病か、人間的バランスを失っており、自分の行動に対するコントロールを失っている。どちらも、有罪者と呼ぶことはできない。 結局、善と悪というのは病気の状態ではないだろうかと思う。もちろん、殺人者は飛行機に乗る人よりも重い病気を生み出すといわれれば、そうかもしれない。人間の体の中でこの善と悪が発生したときどうなるだろうか。あるグループの細胞が自らには都合が良いけれども他の細胞には害となる行動を起こした場合、人間は病気の状態と成り、自らのための善、他の悪を行った細胞のグループは、結局彼ら自身も苦しむことになるだろう。 人間の体の中の細胞が全体というデザインの完成の為に動くのであれば、人間は健康な状態でいられるだろう。私たちが日常生活で行っている無邪気な善と悪は、結局自らを苦しめることになってしまっている。 今人々は近視眼的な視野しか持てず、全体との調和、関係というものを考える能力を失ってしまっている。脳の部分的麻痺かな。地球というひとつの大きな体の中で、どうすれば地球が、そして私たちが健康でいられるか、私たちの想像力を呼び戻し、遠くはなれたところに視点を置いてみてみる必要がないだろうか。 私たちは善のためでもなく、悪のためでもなく、全体の調和とデザイン、創造性の為に健康な状態を目指すことができないだろうか。私たちの行動がたとえ一部の人にとってすばらしい善であったとしても、それが他の人、自然にとっての悪であったならば、それは全体として病気という結果しか生み出さないし、結局その善は悪として自分自身に戻ってきてしまう。もちろん病気も体力や抵抗力をつけるために必要ではあるだろうけれども、今の状態はあまりにも病気がはびこりすぎていないだろうか。 たとえば人が自らの命を犠牲にして誰かを救う。この場合助けられた人にとっては善だけれども、殺された命にとっては悪だ。この場合全体から見るとやはり病気といえるのだろうか?うーん、難しい。確かなものは何一つ存在しない、というのがほぼ確実な事実かもしれない・・・。 善と悪についての話にもう一度もどろう。善と悪による病気がもたらす大きな問題のひとつは憎しみだろう。憎しみの為に人々は新たな善と悪を作り出し、今地球は自分にとっての善、他にとっての悪の為にお互いが牙を向き合っているように感じられる。けれども善と悪とは決して憎しみ、嫌い、恐れるものではなくて、全体としての視点の欠如、何一つ同じもの、同じ思想、同じ意識は存在していないこの世界が繋がってひとつの全体を作るという難しい過程における、副産物、というか、適当な表現がうかばないけれども、そのようなものではないかとも言えないだろうか。 病気の人を憎み、罰する人はいない、善と悪もやはり肉体的病気と同じように、病んだ精神、病んだ魂であって、自らの善の為に人を殺したもの、飛行機に乗ったもの、洗濯機や冷蔵庫を使用したものが死後罰されるということはありえないと思う。ただそれらの好意は自分自身をより病気の状態へと導くだけ。物質社会が作り出す善と悪を責めているように感じられるかもしれないが、そうではなく、物質社会も、殺人も戦争も陰謀も、憎むには足りない、ただ癒しの対象として私には写っている。もし病気で苦しんだ人々が死後その病気の為に罰されなければならないとしたら、どんなに不公平だろうか。宇宙はそのように成り立っていない−と思う・・・。 もちろん、ニューエージ、オールドエージのリーダーたちが私たちに信じさせようとするように、憎しみという感情、否定的な感情を持つべきではないとは思わない。憎しみという感情が、ただ善と悪という行動をとるためではなく、全体という視点で起こった場合、それは癒しのエネルギーになるのではないだろうか。 望む、望まないにかかわらず、すべてはすべてに繋がっており、すべてはすべてと相互に関係している、というのは存在の変えがたい事実にちがいない。そしてそこに何一つとして同じものは存在せず、すべてはそれぞれ違った役割、自由意志を持っている。 人間の体全体、街全体、地球全体、宇宙全体、宇宙をさえ越えた全体、常に全体という巨大なデザインを思い浮かべ、遥かに時を越えた創造の旅を続けたいと思う。 以上はある一つの角度から見た、私の善と悪に関するイメージであるが、書けば書くほど、違った視点でのイメージが見えてくる。ひとつのテーマに対して、ひとつの答えというものは結局存在しないのだと思う。 |
| ワンネスとは何一つ同じものは存在しないということ。 |
ニューエージが人々の心を混乱させるためにワンネスという言葉を流行らせた。多くの人が私たちは皆同じでなければならない、同じ目的、同じ思想を持たなければならない、アセンションだけが私たちのゴールであると思わされているのではないだろうか。しかし、本の少しでも周りを観察してみると、まったく同じものどうしは繋がらないということに繋がるだろう。たとえば同じ部品がいくつあってもそれらを繋げることはできない。私たちの体の中を見ても心臓があり、肺があり、肝臓があり、そして目や口、耳、それぞれ違った機能を持ったものが、ひとつの全体を作っている。 私はもしかしたらまったく同じ物は何一つとしてこの自然界に、宇宙に、物資的、肉体的、霊的な、精神的なすべてのレベルにおいて、存在しないのではないかと想像してみる。 木は同じような葉を毎年いくつもいくつもつけるけれども、よく見るとそれぞれ少しずつ違っている、花も枝もまったく同じではない。外国人は皆同じような顔をしているように見えるけれども、彼らに言わせると日本人は皆同じような顔をしているらしい。 気が遠くなるような多様性を持つ、植物、昆虫の世界、微生物、分子、原子、素粒子に至るまで、何一つ同じものはなく、それぞれが皆、自由意志を持ち、ただひとつの全体に繋がっているのではないだろうか。同じもの同士が繋がるのではなく、違うものどうしだから繋がるのかもしれない。似たもの同士が惹かれあうというのは、全体の中のひとつの部分としての全体を作るための同じ方向性、目的によって惹かれるのであって、まったく同じであるからだとは思わない。 とにかく、私たちはそれぞれひとつの独立した自由意志を持つ、唯一無二の存在であり、その肉体、魂の中にまた、無数の独立した存在を持っており、また私たち自身もさらなる創造、全体を作り出す部分としての全体として、存在しているのではないだろうか。 |
| 人々の魂は虫や鳥、魚、動物、植物にも転生するのだろうか。 |
人間の魂は常に人間としてしか転生しないと信じている人がほとんどだと思う。実際のところはどうなのか、私にはまったくわからない。P’s は人間が万物の霊長であるというのはとんでもない嘘であり、また人間の魂は人間にしか転生しないというのも大きな間違いで、動物、鳥、魚、昆虫、植物、鉱物、すべてを経験するようにデザインされている−と語っている。彼らはまた私たちが必ずしも地球に転生するとは限らないとも言っていた。 多くの人は様々な悩み、苦しみ、病気に、文句をいいながらも、人間であることに優越感を持っており、人間以外のものに転生することを忌み嫌い、またそれは地獄の苦しみであるとさえ思っている、または悪いことをすると動物や虫に転生させられると信じている。 けれども動物や虫の生活はそんなにつまらないものなのだろうか。P’sは動物や昆虫は多次元世界に住んでいると言っていた。彼らはショッピングモールやテレビがなくても退屈しない。実際、動物や昆虫、植物が、何を見て、何を感じて生きているのか。私たちの想像を遥かに超えた、感動と喜び、そして創造の世界がそこにはあるかもしれない。 彼らは私たちが忘れかけている、宇宙と繋がる、地球との繋がるネルギーに、歓喜する瞬間を知っているかもしれない。たぶん、人間であることが一番の幸せであるというのは勘違いじゃないかな。人間は人間で、動物は動物、昆虫は昆虫のそれじれすばらしい経験をしているのだろう。 私はいつか、動物や鳥、魚、昆虫、植物、鉱物の命というものを経験するのも悪くないなあ、と思っている。 |